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天保山の歴史

天保山の歴史

【大阪の歴史】

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大阪は古墳時代後半から「難波津(なにわづ)」、「住吉津(すみのえのつ)」の2つの港を擁し、朝鮮半島や中国大陸とのやりとりをする、いわば“国際港”としての役割を担っていました。
難波津は畿内政権が国内の支配権を強化する過程では遠征軍の基地として、住吉津は地方からの貢献物を集散地としての役割を 果たすと共に、遣隋使や遣唐使を通じた中国や新羅との活発な交流の窓口でもありました。

近代都市大阪の母体となるまちづくりは、豊臣秀吉による大坂城築城と城下町の建設が始まりでした。
江戸時代には淀川、大和側の堤防決壊を教訓に河村瑞賢が計画した安治川開削によって新たな水運体系が形成され、大坂川口から舟運に便利な堂島川や堀川沿いに蔵屋敷が集中するようになりました。
そして北海道や日本海沿岸との地域を結ぶ北前船や、江戸との間を結ぶ菱垣廻船などが往来。大阪は国の生産、流通、金融の中心として「天下の台所」と活況を呈していました。

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【天保山の誕生】

安治川や木津川の河口部では土砂の堆積による川底の上昇のため、治水や舟運上の支障が生じることから、恒常的な川浚え(かわざらえ)が必要でした。そのため、江戸幕府は天保2年(1931年)から3年にかけて、安治川、木津川などの大規模な川浚えを行い、その時の土砂が積み上げられてできたのが天保山です。
この工事には大坂町奉行指揮の下、延べ10万人の労働力がつぎこまれ、工事自体がお祭り騒ぎだったと言われています。
浚えられた土砂を積み上げた築山の高さは約20メートルほどの高さがあり、安治川入港の目印とする意図があったため、当初は 「目印山」と名付けられましたが、後に築かれた時の元号が「天保」だったことから、「天保山」と称されるようになりました。

また、この工事によって天保山の周囲に町が形成されていきました。灯台が設けられ、山には松や桜の木が植えられ、茶店なども置かれ、大坂でも有数の行楽地となりました。当時の舟遊びをする人々の姿は歌川広重などによって浮世絵にも描かれています。

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